インターネットは誰のものか?
前のエントリーの日時を見たら、「1週間に1本」という年初の誓いをすっかり破ってしまっているのに気がついて、かなり下げ気味です。年度末のバタバタや、長野への出張やらでかなりエントリーも滞り気味でしたが、そろそろちゃんとエントリーしておかないと、このままブログが無くなりかねん、ということでまず一本(書きたいことは最近本当に沢山あるんです。特に梅田さん出版記念講演会のログについては、とても書きたいことがあるんですが、これはまた後日)。
#しかし長野は、訪ねたのが南部にも関わらず、辺りはすっかり雪だらけでした。最近長野に行く機会が多いですが、長野在住の方にいろいろとお薦めスポットを教えて頂き、もっとプライベートで行きたいなぁと思う今日この頃です。
つい最近、アイスタイルの吉松さんと、現在大学院にいらっしゃる佐々木さん、PICSYの鈴木さんと、鈴木さんのところで修行(?)している森田さんと会食の機会がありました。その際に、吉松さんがSFCの先生と会食した時の話をしてくれたのですが、その話が自身としては少なからずショックでした。
吉松さんいわく、その先生がSFCの学生に対して「誰がインターネットを管理すべきか?」というアンケートを行ったところ、6割の学生が「国」と答えたとのことでした。それを聞いたSFCの大先生(インターネットの草創期に多大なる貢献をされた先生)が「俺がそこに行って今からちゃんと教育する」というような趣旨の発言をされ、相当憤慨されていたそうですが、私も憤慨とまではいかないまでも、いろいろと考え込んでしまった次第です。
本当のところ、どういう経緯で学生がインターネットの望ましい管理主体として「国」を挙げたのかはわかりませんが、比較的早い時期からインターネットに触ってきた身としては、そこが今まででは実現出来なかった自由な世界であったことに魅力を感じていたわけです(まあ小さな自由だったかも知れませんが)。当時ネットは、そこに繋ぐ人達がルールを決めてきた世界だったわけで、自分たちが世界の創造に参加できるという、当時では考えられない程ワクワクする機会がありました。
考えてみれば、現在学生の人達はこうした「インターネット文化」のようなものを知る機会はかなり少なかったはずだし、更には当たり前のようにつながる世界で育ってきたわけですから、感覚が異なるのは当たり前の話で、例えばネットは国家の重要な戦略インフラで、そこで様々な信頼に乏しい行為が行われているのだから、国が積極的に規制すべきだ、という意見が出てきても仕方がないのかな、と思う部分もあります。
また、昔はインターネットに繋いでいる人の多くが「私は新しい何かの創造に参加している」感があったのだと思いますが、現在のように一般のインフラとして普及すると、参加している、というよりは便利だから使っている、という感覚になる人が多いのは至極当たり前の話でしょう。
それでも個人的には、インターネットというものが、誰かに管理されるのではなく、様々な人に参加のチャンスがあり、しかもお互いのコミュニケーションの中で利用のルールが決まっていく世界であって欲しいという想いがあります。そういう世界を作るのには、これまでにも様々な人の労苦や多大な費用がかかっていたわけで、その貴重な場が失われることに非常に危機感を持っています。
もちろん、今のインターネットはベストではないと思います。スパムやらウイルスを送りつける人やら、その他諸々のネットを通じた犯罪などが日々横行しているわけで、事前知識の無いユーザがそうした行為の被害に遭っていることも事実です。それはそれで緊急性が高いうえに、何とかしていかないといけないわけですし、現実の法の中で裁かれるべきものだと思っています。とても昔の牧歌的な世界ではないことは十分承知しているつもりです。
とはいえ、インターネットという自由な世界があるからこそ、新しい技術で世界とコミュニケーションしようという技術者が出てきたりとか、自分を含め、ネットの特性を活用して新しい仕組みで社会に貢献しよう、新しい価値を提供しようという人達が出てこられるわけです。こんな世界、滅多にありません。インターネットが規制でがんじがらめの世界だったら、こんなにいろんな人が新しいことに挑戦出来てこなかったでしょう。
現実の政治でも昨今、月並みな言葉ですが「社会への参画意識の欠如」が問題になっていますが、いつもトップダウンで降ってくるものをどうこなすか?と考えるところから、大勢が、自分達で社会を創っていくにはどうしたらいいのか?という風に、大変でもコストを遣って、自分の望むものに近い世界を作っていく自由を手に入れることに魅力を感じるようになっていかないものかと思っています(でもここは難しい問題で、システムに慣れてしまった人にはそれが非常に心地よい世界であることもあるんですよね。映画の”Matrix”じゃありませんが、現実に気づかない方が幸せ、という人もいるわけで、悩ましいところです…)。
これに付随して、よく「でも悪いことしなければ、監視社会でも全然ハッピーでしょ」という論説に出会うこともありますが、善悪の常識も監視社会の中では監視する側に依拠するわけで、それが変わらないという保証は全くありません。自分は普通に生活しているつもりでも、ある日それが異常なことになっている可能性が無いとは言い切れ無い訳で、やはり僕はそういう世界を未だに信用出来ません。
いずれにせよ、インターネット草創期の気風というか、世界観を文化として残していって、参画者が管理していける世界を継続するためには、若い人に「ウゼぇ」とか言われながらも(笑)、そもそもネットがどういう風に出来てきたのか、とか、ネットの創造に関わった研究者や利用者にどういう理想があったのか、というところ喋り続けたり、あるいは自身がそういう気風を体現するように活動するしかないのかなーと思っています。今後は私もそういうことを少しは意識しつつ、やっていきたいなぁと思う今日この頃です(相変わらず乱筆ですみません…)。
#そういえばICANNでもこんな感じで国益がぶつかっていたりしますよね。こういうところを、いつか越えられる日が来るのかと久々につらつらと悩んでみたり…。


去年、私の奥さんの実家に初めてパソコンが来たとき、悩んだ末にいわゆる「インターネット的な自由」を伝えることを断念しました。
Yahoo! JAPANでニュースを好きなときに読んで、中国に居る友達とYahoo!メールで文通、娘とIMで会話する。iTunesでネットラジオが無料で聞ける。これがご実家の「インターネット」です。
ご実家にしてみれば、携帯よりもじっくり入力できて文字が大きいメールが使えるし、今までより娘と多くコミュニケーションがとれるわけで。それだけでも十分価値があると思っています。
でも、それは僕から見れば「ただのポータルで、インターネットじゃない」と思ってしまいますが、ちょっと見かたが変わってきました。
メールのやり取りでも、ご実家には、僕らがかつて感じた「世界とつながるワクワク感」があったんですね。振り返れば、僕が漢字Talk 7.1で初めて接したモザイクで見ていたもの、感じた自由も、今から思えばたいしたものじゃありません。
レイト・マジョリティにはレイト・マジョリティのスピードで自由を求める空気があり、それはいずれ本当に社会を巻き込む大きな波に成長してくれるんじゃないかと、楽観的に信じています。
ポータルがその橋渡しになれれば素敵です。というか、ならなきゃいけない。
アレゲな子たち(笑)には、コンピュータと回線があれば、世界を変えるようなサービスを自分の手で生み出すことができる。そう感じさせるようなアプリケーションを作り、その作り手が彼らと対話して、自由の可能性を見せることが大切かなぁと思ったりしています。
2月 11th, 2006 at 3:03:04もうお読みになっているかもしれませんが、HBR日本版2005年12月号にハーバード大学ロースクールのZittrain教授が「そろそろインターネットに制限を」というオピニオンを書いています。インターネットの開放性が今や無秩序な脅威になっており、それを防ぎ、システム全体の柔軟性を確保するためにはネットワークにもある一定の介入が必要であるというのが、彼の主張であす。ちなみに、解決策の一つとして「二重のインターネット」などという提案もしています。
2月 11th, 2006 at 15:42:37彼の立場がどこにあるのかはHBRでの主張からはうかがい取れませんが、彼はこのような問題をインターネットの開放性のメリットを享受している者が真剣に考えるべきであると言っています。この点については全面的にagreeです。
実は、私の講義のタームペーパーのテーマの一つを「このオピニオンについてどう考えるか?」といたしました。学生さん達がどのようなレポートを提出してくれるのかが非常に楽しみです。
御手洗さんが仰るように、インターネットの自律・分散指向がまさに、ここまでの社会変革を起こしてきたことの根本だと思います。小鳥さんのエントリー「キムタクのITリテラシー」に出てくる「イケメン」たち (w に、自律分散の意味を伝えることはとっても難しいことなのかも知れないけれど、草創期を知る私たちは伝える義務があると感じます。
2月 11th, 2006 at 19:30:45皆さん、コメントありがとうございます。いろいろと考えさせて頂く良い機会になりました。
>やまもとさん
仰ること、ごもっともです。私もそういうシンプルなコミュニケーションに対する感動が大事だと思っています。利用者が増えて、経験が蓄積されていくうちに良い方向に行けばそれに越したことはないなぁと思います。
昔は「ネットのトラフィックは皆で大事に使おう」と、メールの引用の際には署名部分を削ったりとか、そういう文化がありましたが、時にはインフラを作っている人たちや、利用している人達が線の向こう側を意識するようなアプリやサービスがあるといいなと思っています。
>tsrkitaさん
良いReferenceをありがとうございます。HBR、是非読んでみたいと思います。私もtsrkitaさん仰るとおり、「彼はこのような問題をインターネットの開放性のメリットを享受している者が真剣に考えるべきである」という点には同意します。
が、わかっている人たちだけによる議論は、(理性とか倫理のタガが外れると)時にわかってない人たちを都合よく管理するだけの議論になりがちなので、そこはネットらしく「オープン」にやっていくのがよいのではないかと個人的には思っています。
>kwmrさん
私も小鳥さんのブログ読みました:-) 昔「ネットデイ」なんてものがありましたが、ああいった地道な活動の中で、そういう背景的なものが説明されていくといいんだけどなぁ…と思っています。
学校でも、今後メディアリテラシーとかいってネットのことも教えていくのなら、是非この辺は考えてほしいところです。
2月 12th, 2006 at 0:09:49インターネットを国が管理するというのは、理想的にはおかしくないと思います。
2月 12th, 2006 at 11:14:59理想的には
・インターネットを国が(国ごとに)管理する
・国を国民が管理する
となればいいわけで、
問題は国を国民が管理できていないことでしょう。
名無しさん、コメントありがとうございました。
(最近ばたばたで細かくコメントできず申し訳ありませんでした。)
仰る点は理屈の上ではそうなんですが、ネットは(当時未成熟だったせいもありますが)その当初は国境の壁を超えたコミュニケーションを様々な形で実現できる、実に楽しい空間だったように思っています。
リアルよりも制約が少ない分、もっと自由に面白い環境をお互いの対話の中で作っていける空間だと思いますし、個人的な理想としても現実のルールや制約を越えて、一般の参加者が新しい秩序を作っていくところであってほしいという思いはありますが、現実にはコミュニケーションの蛸壺化が進行していたりと、むしろ問題が多く目立つようになってきています。
そこをまた参加者のイノベーションでどう変えていけるのか、その点を個人的にも新しい可能性というか、世界の余地みたいなところだと思っていますし、大事にしたいと思っているところです。
2月 14th, 2006 at 14:40:42