前のエントリーが相当話題のようでしたが、自身は久々に長い休暇を頂いていました。沖縄出張があったので、そのまま1日沖縄に滞在し、帰ってからは実家に帰って、と休みの割には実はばたばたと過ごしていました。
休暇前に気になっていた選挙の件とか(民主党岡田代表の辞任挨拶は心情がいたく理解できました。「民主党としては精一杯の政策を提案したが、これが国民の選択である」的なコメントがありましたが、忸怩たるものがあったのだろうなと)、XML-User MLで久々に大きな波紋を広げていて知った古川元Microsoft日本法人会長のエントリー「PDC2005の関連記事」の最後にあった:
Open XML Formatに関して、もう少しマイクロソフトの姿勢をちゃんと説明すれば良いのに、と思います。これは、マイクロソフトがオフィスの記録データ形式を得エクセルやワードの独自フォーマットではなく、XMLベースのオープンな記述形式にシフトしていくという宣言である…という話を誰かしてちょーだい!!
という内容についていろいろと書きたいところなのですが、今回はいろいろと考えさせられることの多かった初沖縄訪問について書きたいと思います。
今回は沖縄初訪問だったのですが、仕事がオフの時間を利用して、首里城とひめゆりの塔に行ってきました。首里城は沖縄の歴史の一端に触れるため、またひめゆりの塔は、最近日本も憲法改正論議などを含めて外交・国防に関して世論が激しく動いているのだけれども、改めて2次大戦の惨状を伝えるところから学ぶべきところがあるだろう、という期待から、今回時間が押す中訪問して来ました。
首里城では、昔から日本と中国の間に挟まれて難しい環境にあった沖縄の歴史の一端を知ることが出来ました。城壁の石積みが時代によって様式が変わっていたり、日本・中国双方のものから強い影響を受けつつも、どちらのものとも言い切れない建築物を見るにつけ、非常に充実した時間を過ごしていました。沖縄サミット(今は亡き小渕元首相の企画で、実際にはその開催前にご本人が亡くなり、森元首相が参加したサミットですね)の際に利用された、再現された昔の沖縄の食器なんかも展示されていて、興味深く見てきました。
その後、ひめゆりの塔まで移動して併設されているひめゆり平和祈念資料館を訪れたのですが、久々に自分にとっては考えさせられるところの多い経験でした。
外でお花を買い、中に入るとまず碑があって、沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校(愛称が「ひめゆり」だったそうです)の生徒222人と、教師18名が動員され、その大多数が命を落とした歴史が刻まれています。その先に「ひめゆりの塔」が立っているのですが、無数の花がその前に供えられており、日々ここを訪れる人が絶えないことがわかります。後で知ったのですが、ひめゆりの塔は後述の解散命令発令後、多くの死者を出した南風原陸軍病院第三外科壕跡に建立されているとのことです。
さらにひめゆり平和祈念資料館も訪れました。これまでは、生存された元ひめゆりの方々が、実際に説明員として語り伝える形で施設を運営されていたそうですが、当時からかなり時間が経っていることもあり、亡くなられる方も増え、資料だけでもその歴史をしっかりと伝えられるように昨年リニューアルされたそうです。
資料館では沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校の歴史に始まり、日本が戦争に突入するまでの歴史経緯、ひめゆりが学徒隊として動員されるまでの経緯、実際に負傷兵の看護のために動員された後の生徒の働きやその環境を伝える資料展示、最後に再現された壕と生存者による証言集(資料館では資料集を販売していますが、ここに全て掲載されていました)が展示されています。
物資が足りない環境下での看護状況や、そこでの心理がひしひしと伝わってくる展示でした。現場に居合わせた方々の心理や、周囲の歴史状況を包括的に見て感じることが出来、施設の展示としてはとてもいいものなのではないかと思いました。もう一度、やはり説明員の方にいろいろとご説明頂きながら、しっかりと当時の状況を理解したいという思いが深まりました。
誤解を招く恐れがありながらも感じたことをきちんと書くならば、この展示から学んだのは戦争の悲惨さはもちろん、それ以上に正しい教育の重要性と、リーダーというポジションの責任の重さでした。
前者に関しては、現代の感覚からすれば敵兵に追い詰められた危険な状況下では降伏を選択すべき、という選択が出来るのに対して、当時は徹底的な戦時教育によって、特攻か自決か、というような絶望的な選択をせざるを得ない状況になっていたわけです。沖縄南端に米兵に追い詰められ、いよいよ最後の決断をしなくてはならなくなった状況に関する証言集を読むと、その切実で絶望的な心理状況が伝わってきます。
ここで「降伏しよう」と言える大人がもっと多ければ、不慮の死を遂げられる方ももっと少なかったのではと思うのです(とはいえ、やはり証言集を読むとわかるのですが、そうした行為を「スパイ行動」として、軍隊が対象者を処刑していたという話もあるので、何重にも降伏を選択しにくい環境に晒されていたのではないかと思われます)。
後者に関しては、国家としての選択ももちろんそうなんですが(特に資料館の展示にも掲載されたいた、近衛文麿の1945.2の早期和平案が採択されなかったことは、日本史を高校で選択しなかった私は詳細をよく知らないのですが)、ひめゆりを含む沖縄の日本軍が沖縄南端に追い詰められた6月18日に軍司令部より発令された「解散命令(軍属としての責務を解除し、そのまま文字通り戦場の真ん中で解散すること)」のような話を知ると、特にそう思うわけです。
ひめゆりの死者の多くがこの解散命令後に出ていることを考えると、「国民の保護」という軍隊の本分が正確に理解されていれば、もっと正しい選択が出来ていたのに、と残念に思うわけです(そもそもそうした本分がわかっていれば、沖縄戦自体が無かったはずですが)。教育とそれを指導する立場にある人の選択の重さが、本当にここから伝わってきます。
証言集からは沖縄の地形が変わるような砲撃の雨の中、逃げ惑い次々と亡くなっていく生徒と教師の姿が伝わってきます。いつも弱いところにトップの誤選択のツケが回ってくること、でも一方で弱い人を含む多くの人の選択によって戦争に突入したこと、その辺に人間の難しさというか、寂しさをいつも感じます。
ブログでも「タコツボ化」が言われるようになってきましたが、そういう負の側面を超えて、情報が高い価値を持つ時代に、インターネットが少しでも強者と弱者の間の情報格差を減らし、多くの人にとって正しい選択をサポートする仕組みになってほしいと私はここ10年ずっと思っていますし、これからもそういう方向にインターネットが使われるような仕組みを考えたり、サポートしていきたいところです。
戦争は外交の最大の失敗だとよく言われますが、近年叩かれることの多かった外務省には本当にこれからも友好的な外交関係の構築に頑張って欲しいと思いますし、常に難しい選択に携わることの多い政治家には、忙しいことをわかりつつも、やはり1年に1度はこうした施設を訪れて、戦争のもたらすものを肌で実感してもらう機会があってもいいのではないかと思います。
また私は「公正かつ世界的な治安システムの構築」と、「非戦を約束しつつ高い交渉力を持った外交の実現(交戦オプションが無いわけですから、非常に難しい外交を強いられるわけですが)」を期待している護憲論者ですが、これからこの国もそういう選択を許容できなくなっていく可能性が高い中、せめて戦争が自分たちにもたらすものを常に意識しておくことは、これからますます大事になっていくと思っています。
ネットでこうした歴史を知ることが出来ればいいのに、と思いつつ、やはりその現場に行かないと切実な思いが伝わってこないこともあるということを思う今日この頃です。
ひめゆり平和祈念資料館訪問後、その近辺にあり、敵味方関係なく、当時沖縄南部地域にあった遺骨を集めて納骨した「魂魄の塔」を訪ねてやはりお花を供えてきました。この魂魄の塔がある平和祈念公園から見える海岸はとても静かで美しいのですが、一方で激戦で夥しい数の死者が出た、という事実を知った後では、打ち寄せる波の音しか聞こえないその静寂がとても堪えるものでした。この海岸で、おおくの人々が前には敵軍、後ろには退くことを許さない自軍がいる中で絶望を抱えて逃げまどい、米軍の砲弾に倒れたり、自身の持つ手榴弾によって自決したことを想像すると、亡くなった方を含め、沖縄がこの歴史から癒される日は来るのかと苦しい気持ちになります。
帰宅後いろいろとググッていた中で、Wikiポータル 平和を見つけたので、これを紹介して今回のエントリーを終わらせてもらいたいと。